ジダン問題とマリーシア [サッカー]
ジダンの頭突き問題が一応の決着をみた。
だが結局、本質的な問題は棚上げされたまま、
どこか消化不良で終わってしまった感は否めない。
というのも、この問題は単にジダンとマテラッツィ二人だけの問題ではなく、
現代サッカーの根源的な問題だと思うからだ。
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改めて事実関係を整理してみよう。
当人たちの証言から明らかになっていることは、
マテラッツィがジダンに対してなんらかの侮辱的発言をし、
それに対してジダンが頭突きをしたということ。
また、ビデオを見る限り、マテラッツィの侮辱以前に、
ジダンを抱え込むようなマテラッツィの反則まがいのディフェンスがあり、
それに対してジダンが何か抗議をしているらしいことが分かる。
とすれば、ジダンの頭突きの原因は、
直接的にはマテラッツィの侮辱的発言にあるとしても、
間接的にはその前の攻防、つまりマテラッツィの執拗なディフェンスに
原因があると考えられる。
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まず直接的な原因である侮辱的発言についてだが、
これに対して、マテラッツィは「よくある売り言葉」だと説明。
『プロのゲームの一部として、挑発的発言は受け入れられてきた』
という英・デーリー・メール紙の言葉を引用するまでもなく、
実際こうした「挑発的な発言」はサッカー界ではよくあることのようだ。
この「挑発的発言」が意図的に行われたのだとすれば、
それはジダンをイライラさせて、普段のプレーをさせないようにする
という戦術的なものであり、
その延長として、あわよくば退場でもしてくれたら儲けもの、
という魂胆があったとしても不思議ではない。
一方でこの発言が意図的なものでなく、
ジダンの抗議に対して反射的・感情的に出てきたものだとしても、
ジダンが抗議しているのは、マテラッツィのディフェンスに対してであり、
結局これも、ジダンを自由にプレーさせまいとする、
戦術上の行為に端を発していることが分かる。
つまり「意図的な挑発」と「反則まがいのデフェンス」
この二つはどちらも、キープレーヤーであるジダンを自由にプレーさせない
という戦術上ごく当たり前の前提から導きだされたものである。
ただ問題はこうした行為が、サッカーでは当たり前のように行われているという
そのことにある。
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「マリーシア」 という言葉がある。
ずる賢いプレーという意味で使われるが、
例えば、審判の見えないところで、相手のユニフォームを引っ張ったり、
足がかかってもいないのに、倒れてファールをもらおうとする行為などがそうだ。
いかに審判に見えないように、相手のユニフォームを引っ張るかというのが、
プレーヤーの有能さを示すひとつの目安になっているようなところもあり、
現状として、ある程度容認されている部分もあるのが事実である。
プロという厳しい世界では、マリーシアの精神はむしろ必要という意見もあり、
それも含めてサッカーという文化ができあがっている。
今回のマテラッツィの行為もこのマリーシアという観点からすれば
当然の行為であると言える。
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紳士的なスポーツといわれ、フェアプレーの精神を重んじるサッカーに、
マリーシアという非紳士的要素が根付いている矛盾。
しかしマリーシアこそが、今回のジダン問題の発端であり、
今回のワールドカップで露呈された幾つかの問題、
すなわちカードの乱発、得点力の低下といった問題の一因でもある気がする。
挑発的な発言や、ユニフォームを引っ張ったりするプレーが減れば、
当然カードも減るし、選手はより自由にプレーできるので、
ゴールチャンスも増えるだろう。
マリーシアについては賛否両論あるだろうが、
勝つためには手段を選ばず、みたいなところがあり、
また正攻法で立ち向かえない自分たちの能力の低さを曝け出しているようにも見え、
個人的には好きではない。
第一美しくない。
だからといって完全に否定するつもりもないが、
ただ、取り締まりや罰則はもっと強化するべきだろう。
その場で確認できなくても、試合後ビデオでそのようなプレーが確認されたら、
その時点でイエロー、あるいはレッドを与えるとか。
今後、今回のような悲しい事件が起こらないためにも、
また、得点の入る見ていて楽しいサッカーを目指す意味でも、
こうしたずる賢いプレーが、当たり前として行われている現状について
いま一度考えてみる必要があるんじゃないだろうか?
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