9.11 [その他]
ニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込む旅客機。
何度も観た映像だ。
世界中を感情的にさせるには充分すぎるほど
インパクトのある映像だった。
決して映画のワンシーンなんかではなく、
まさに今、現実に起きているという捉えがたい事実に
戦慄を覚えたものだ。
酷い。
それまで感じたどの「酷い」という感覚ともそれは違っていた。
自分の中の一部が破壊された気がした。
■
次々飛び込んでくる新たなテロの情報に、
この先一体どうなってしまうのだろう、という不安を募らせる一方で、
自らの意思とは無関係に、心のどこかでさらなるテロの続発を期待しているような自分もいた。
例えば大規模な災害などで、報道される死者の数がどんどん増えていくたびに、
酷いと思いながらも、一方で記録が更新されるのをどこかで望んでいるような感覚…
いや、「期待」とか「望んでいる」という表現はやはり違う気がする。
多分そうではないのだと思う。
ただ新たなテロが伝えられる度に、気持ちの中で何かしら高揚する部分があったのは確かだ。
これをどう捉えたらよいのだろう。
ある種のカタルシス効果か。
サディズムの発露か。
あるいは自分の怒りの感情を確固たるものにするために、
憎しみの対象を、より憎むべき対象へと引き上げるため、
さらなる残虐な行為を期待するという矛盾した感覚なのだろうか。
頭では嫌悪していても、本能の部分では快感を感じてしまうということがある。
例えば「怖いもの見たさ」や「スリルを求める」といった感覚に近いのだろうか。
かつてノストラダムスの大予言というものが巷で流行っていたが、
そんなことは起こり得ないし、起こっては困ると思っていながらも、
どこかで世界の終りを案じているような感覚もあった。
単なる「悪い予感」「胸騒ぎ」という言葉では片付けられない何か。
「悪い方向へ吸い寄せられて行く感覚」とでも言おうか。
例えば、高い崖の上に立つと飛び下りてみたくなったり、
周りの人間に、唐突に侮辱的な言葉を浴びせてみたくなるというような。
もちろん実際にそんなことはしないが、
自分でも望んでいないのに、突然そうした思いが頭をよぎってしまうことがある。
こんなことを感じたりするのは、
僕が個人的に問題を抱えているということだろうか。
■
ともかく、9.11以前と以後、世界は明らかに変わった。
もちろんテロ行為は許されることではない。
しかし、ただ感情的に憎むだけでは何の解決にもならない。
なぜテロが起きるのか、その背景をよく考える必要がある。
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